絶望の先で、どう生きるか――映画『ゼロ・グラビティ』と、私が音を紡ぐ理由
こんにちは。おちあP🔵です。
先日、映画『ゼロ・グラビティ』を実に5年ぶりに観直しました。
医療技師であるライアン・ストーン博士が、ベテラン宇宙飛行士マット・コワルスキーとともに地上600kmの上空でハッブル宇宙望遠鏡の修理作業を行っている最中、突如として激突した宇宙ゴミによってシャトルが全壊。漆黒と無音の宇宙空間へと放り出されてしまう。
通信は絶たれ、残り少ない酸素と燃料。絶望的な状況下で、地球への帰還を目指して極限のサバイバルに挑む体験型宇宙サスペンス。
1時間30分という極限まで削ぎ落とされた上映時間の中で描かれるのは、無音と漆黒の宇宙空間に放り出された一人の女性の姿です。息が詰まるようなパニック、酸素が減っていく恐怖、そして死の静寂。宇宙空間で自分自身も息ができないかのような錯覚を覚えながら画面を見つめ、ラストシーンを迎えたとき、私は自分でも驚くほど激しく涙を流していました。
この映画は単なる宇宙SFアクションではありません。人が人生のどん底や理不尽な絶望に直面したとき、いかにして「もう一度生きる覚悟」を決めるかを描いた、魂の再誕の物語です。
観終わったあと、私の中で強く結びついたのは「私自身がどう生きたいのか」、そして「なぜこれまでそうした曲や言葉を作り続けてきたのか」という、自分自身の根幹にあるテーマでした。
変えられない過去と、届かない結末
生きていく中で、どうしても抗えない理不尽や運命に直面することがあります。
どれほど後悔しても起きてしまった過去を巻き戻すことはできませんし、失われた時間や命を取り戻すこともできません。どれほど情熱を注いで富や実績を積み上げたところで、それをあの世へ持っていくことは不可能です。どんな記憶や作品であっても、時代の波の中でせいぜい一世代も過ぎれば静かに風化していってしまいます。
世界というあまりにも巨大な構造の前では、私一人の力なんて無力です。「過去に何があったか」も、「最終的にどんな結果になるか」も、自分でコントロールできる領域ではありません。
だからこそ、自分の価値や生きる意味を「過去の栄光や傷」や「外側から得られる結果」に委ねてしまった瞬間、深い虚無と絶望に囚われてしまいます。
絶望の底で突きつけられる問い
ソユーズの船内で酸欠になりかけ、絶望の深淵に立った主人公ライアン。その幻覚の中に現れたマットは、静かにこう語りかけます。
"Look, it's pretty back here. You could just shut down all the systems, turn down all the lights, just close your eyes and tune out everybody. There's nobody up here that can hurt you. It's safe."
(なあ、ここは静かでいい場所だな。すべてのシステムを切って、照明を落として、ただ目を閉じて誰の声も遮断してしまえばいい。ここには君を傷つけるものは誰もいない。安全だ。)
"What's the point of going on? What's the point of living? Your kid died. It doesn't get any rougher than that. But still, it's a matter of what you do now. If you decide to go, then you just gotta get on with it. Sit back, enjoy the ride. You gotta plant both your feet on the ground and start living life."
(生き続けることに何の意味がある? 生きる意味なんて何だ? 子供を亡くした。これ以上に辛いことなんてない。だがな、重要なのは「今、君がどうするか」だ。生きて戻ると決めたなら、腹を括ってこの旅を楽しみ、両足をしっかりと大地につけて人生を生き始めるんだ。)
"Hey, Ryan? It's time to go home. Look, you gotta learn to let go… You wanna go, or you wanna stay here?"
(なあ、ライアン? 家に帰る時間だ。いいか、執着を手放すことを学ぶんだ。……行くのか? それともここに残りたいのか?)
私も絶望の淵に立ってしまったとき、「すべてを諦めて、傷つかない安全な暗闇へ逃げ込みたい」という誘惑に駆られることがあります。実際にうつがひどすぎて希死念慮を覚えたこともありました。すべてを投げ出そうとしたこともありました。目を閉じ、すべてのシステムを切り、何もかもを遮断してしまえば、確かに楽になれるのかもしれません。
けれど、真に人間がその命を燃やし始めるのは、その絶望の底を舐め尽くした瞬間です。
過去の執着を手放し、自らの意思で生きることを選んだライアンは、大気圏へ飛び込む直前、自らに言い聞かせるように叫びます。
"Alright, the clock is ticking. Either I make it down there in one piece and I got one hell of a story to tell, or I burn up in the next ten minutes. Either way, no harm, no foul. Because either way, it's gonna be one hell of a ride!"
(よし、時間がない。無事に下へ辿り着いて最高の土産話を持ち帰るか、あるいはこの10分で燃え尽きるかのどちらかだ。どちらになろうと後悔はない。だってどちらにせよ、最高の旅にしてやるんだから!)
「生か死か」という結果自体はコントロールできません。けれど、「今どう生きるか」「どう挑むか」という姿勢だけは、自分自身で決定できます。
「どうなるか」ではなく、「どう挑むか」。腹を括ってこの命の操縦桿を握り直した瞬間、人は結果を超越した圧倒的な強さを手に入れるのだと感じました。
なぜ私は音を紡ぎ、表現するのか
この映画でライアンがみせた覚悟は、私がこれまで一曲一曲の音を刻み、言葉を紡ぎ出してきた原動力であり、私自身の生き様そのものです。
荒涼とした世界観の中で、静かに、けれど苛烈に燃え立つ感情。理不尽な構造や圧倒的な運命に対して、たった一人の「個」として屈せず抗い続ける意志。どれほど吹き晒しの風の中に置かれようとも、媚びず、濁らせず、ただ鋭利に磨き抜かれた美学。
私にとって創作とは、誰かに消費されるためだけのエンターテインメントを作る作業ではありません。過去の消せない傷から目を背けるためでもなく、いつか逃れられない死への恐れから逃げるためでもない。
「抗えない運命の濁流の中で、私という個がどう存在し、どう戦い抜いたか」を、この世界に刻みつけるための確かな爪痕なのです。
何を選び取り、何を残し、何を潔く捨て去るのか。損得や評価のためではなく、自分の意思で選択し、余分なものを削ぎ落とし、純度を極限まで高めた表現だけを形にしていく。
過去も結果も変えられない私が持てる唯一の力、それこそが「己の意志で決めた生き様を貫くこと」であり、私が音と表現に命を注ぎ続ける唯一の理由です。
重力を引き受け、自分の足で立つ
映画のラスト、湖の水底から命からがら這い上がったライアンは、濡れた砂と泥を力強く手に握りしめ、重力に逆らってゆっくりと立ち上がります。
生きるということは、重く、苦しく、理不尽です。しかし、その重力(Gravity)を全身で引き受け、泥だらけのまま己の足で大地を踏みしめて歩き出す姿にこそ、人間の尊厳のすべてが詰まっています。
過去は変えられません。生きた末の結末もコントロールできません。けれど、「今、どう生きるか」の選択権だけは、どんな時も私たちの手の中に残されています。
どんな嵐が吹こうとも、どんな理不尽が襲いかかろうとも、この一握りの覚悟だけは絶対に手放さない。自分の人生を自分の意思で引き受け、最後の一瞬までこの命を使い切る。
私はこれからも、その生き様を音と言葉で証明し続けていきます。
追記: 各種配信アプリでサントラも出ています。音の作り込みがすごいこだわって好きです。サントラだけでも泣けます。すべて生音が元のようで、声や楽器などの生音を極限までストレッチしたり重ね合わせたり特殊な音響をかけたりして作ったそうです。Spotilyはこちら。
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